「ハイデガー = 存在神秘の哲学」から学ぶ

悟りへの旅路

この本との出会いは、自己探求のために参加した研修の課題図書としてでした。

初めて読んだ時は、書いてあることのほとんどを実感できずにいました。日本語として読むことができても、本当の意味では理解できていない、どこかピントが合わないようなモヤモヤした気持ちのまま、とりあえず読了したという感じでした。

その後、何度か読み返す中で、少しずつ、自分なりにではありますが、理解できてきたこともあるので、ここで、ご紹介したいと思います。

書籍情報

発行:2002年  発行元:講談社 

著者:古東哲明(ことうてつあき)

1950年生まれ。京都大学大学院博士課程修了。広島大学名誉教授。NHK文化センター教員。専攻は哲学、比較思想。哲学者。

<著書の一部紹介>
■<在る>ことの不思議(1992)
■瞬間を生きる哲学──〈今ここ〉に佇む技法(2011)
■沈黙を生きる哲学(2022)

価格:本体800円(税別)

とんとん
とんとん

この本を読んでみて、その他の著書も読んでみたいと思えました。

本が出版された年によって、当然、著者の年齢も時代背景も違います。

その年齢、その瞬間、どのようなことを感じ、考え、執筆されていたのかを想像すると、出版された順番に読んでいくのも楽しそうだと感じました。

プロローグ

とんとん
とんとん

みなさんは、何のために生まれたのか、何のために生きているのか、何がしたいのか、

思い悩んだことはありませんか?

私は「あなたはどうしたいの?」「あなたは何者としてここに在るの?」という問いに対して

答えを見つけられずに思い悩んでいた時期がありました。今は少しだけ晴れた気がします。

この本の冒頭「プロローグ この世と出会い直すために」というタイトルを見て、まさに、そのものずばりという感情が湧いてきました。

「自分が何者として、今、ここに在るのか」という問いへの答えに、少しでも触れることができた時、まるで、もう一度この世に生まれてきたかのような感覚に包まれる。それは、確かに「この世との出会い直し」といってもいいのではないかと思ったからです。

実際に、生まれてきた時の感覚を覚えているわけでもないのに、なぜ、そのような感覚だと言えるのかと、改めて自分に対し、問いを投げかけてみると、これまで自分が見ていた世界が、グレースケールの世界だとすると、問いの答えに触れられた瞬間、フルカラーの世界へと、自分を取り巻く世界が変化していくような、そんな感覚に包まれた気がしたからという答えが返ってきました。

このように書き方をしてしまうと、私自身「何者としてここに在るのか?」という問いへの答えを、すでに持ち合わせているように誤解させてしまうかもしれません。過去に数回、それに近い感覚を味わったことがあるだけで、いつもそのような感覚に包まれて生きているわけではありません。むしろ、その体験があるが故に、今も真剣に探していると言ってもいいかもしれません。

この本は、M・ハイデガー(1889-1976)の哲学を読み解きながら「存在」について考察してくれています。この本を読み進めることで、ぜひ「存在とは?」という問いについて学びを深め、本来の自分として生きるということに想いを巡らせて欲しいと思います。

「存在」について考える

存在論では「存在」と「存在者」を分けて考えることを「存在論的区別」といいます。

具体的なモノに置き換えると「りんご」と「りんごの存在」を分けて考えるという手法です。

「りんご」は、その色や味、形を言葉で表現することができますが、「りんごの存在」を言葉で表現することは難しいと感じませんか?

人は「存在者」を所有することができますが、「存在」そのものは所有することができません。このことから「自分」を所有することはできても「自分の存在」を所有することはできないとも言えます。

「存在」の根拠を、別の「存在者」に求めようとすると無限ループに陥ります。たとえば「存在」の根拠を「神(存在者)」に求めようとすると「神の存在」の根拠について問うことになります。

「なぜ存在するのか」「存在とはそもそもなんなのか」という問いは「存在者」に根拠を求めるのではなく「存在」それ自体で考えるしかないという結論になります。

この難解な「存在」というものについて、過去、真剣に取り組んだ人が「ハイデガー」という哲学者であり、彼が残してくれた研究成果を、著者である古東先生が、歩み直す中で得られた気づきを、分かりやすく説明してくれているのが、この本「ハイデガー=存在神秘の哲学」です。

哲学者「ハイデガー」が用いる表現手法

この本では、ハイデガーが、その執筆した多くの著書の中で、特に使用していた2つの手法について紹介してくれています。

形式的指標法

これは読者に対して、「答え」を直接指し示すのではなく、読者自身に考えさせることで、自ら答えにたどり着くように仕向けていく手法です。

自分が見つけた「答え」を伝えるのではなく、答えに辿り着くまでに通った「道」を伝えることにより、誰もが、そこに到達できるようにするためです。

とんとん
とんとん

「答え」を聞かされても、自分の中で想像できる範囲で、近いものに置き換えることしかできないので、想像もできないものは、置き換えることもできず、理解もできません。

読者自身に、変容を求めるということが必要なことだと理解ができました!

隠しの技法

これは「破綻、死、不安、危機、没落」といった欠損状態を、あえて考察の切り口にする手法です。

何かが「無くなる」時にこそ、それが「在る」ということが、逆説的に浮き彫りになるということを「不在ゆえの現前」と名づけて使用していたそうです。

人は、死んでしまうと「身体」を失います。それによって、現実世界に対して、何かしらを発信する術を失ってしまいます。しかし、それまでに残してきた軌跡は、モノや記憶として残っています。

とんとん
とんとん

人が死ぬことで失われるものが「人の存在」だとすると、人の考えや想い、また、生きて多くの人と出会うことにより、生まれてくるはずだった「未来の可能性」のようなものが「人の存在」といえるものかもしれないなと感じました。

世界劇場論

世界劇場論とは、自分の人生を一幕の舞台劇と見立てる世界観のことを言うそうです。

「世界は劇場、人生は演劇、人間は役者」(シェイクスピア)

このような見方で、現実の世界を観てみると、人は、常に何かの役柄を演じて生きています。

私自身、家庭では、父として、会社では、サラリーマンとして、プロジェクトでは、IT技術者として、バスや電車では、乗客として、様々な場面に応じて、いくつもの役柄を演じて生きています。

役柄上の自分と、本当の自分とは、本来、別々の自分自身です。しかし、本当の自分自身から離れて、役柄に没頭して生きるほど、舞台世界では活き活きと生きることができます。

ハイデガーは、この役柄を演じている生身の自分を「本来的自己」や「自己自身」と呼び、役柄上の自分を「非本来的自己」や「ダス・マン自己」と呼んでいます。

このような、人が持っている二重分裂構造は、舞台劇の停滞や破綻(失業や離婚、死別など)をきっかけに「不安」として沸き起こってきます。この「不安」は、本来的自己が、ダス・マン自己に対して「それは自分ではない」という自己疎外の声をあげている状態だと捉えられると記載されています。

とんとん
とんとん

自分の心の中に、漠然と湧き上がる「不安」を感じた時こそ、本来の自分に気づき、知ることができるタイミングだと考えると「不安」というものを少し前向きに捉えられる気がします。

「エンドロール」と「死」

映画館でみる映画に「エンドロール」という終わりがあるように、人生という舞台劇にも「死」という終わりがあります。この終わりがあるという事実が、かえって1コマ1コマの重要性を高めてくれていると言われると、確かに「死」というものを意識するからこそ、人は一瞬一瞬を一生懸命に生きられるのかもしれないと感じました。

この本には、ハイデガーの考える「死」という概念について記載されています。

人生を映画のフィルムに例えてみると、ある1つの場面において、ディスプレイ上に表示されている画面が、少しずつ消えていき、次に表示される画面が、少しずつ浮かび上がってきます。ここから「死」と「生」は、常に同時進行的に存在しており、いずれ来るであろう未来の出来事ではないという捉え方ができます。

とんとん
とんとん

このように考えてみると「死」というものが、つらい、怖いという対象としてだけではなく、自分の人生の一瞬一瞬を輝かせてくれる存在でもあるような暖かい感じもしてきます。

一瞬の中にある「死」と「生」を積み重ねながら生きているという認識を持つことで、人は本当の意味で自分の人生の大切さを知り、掛け替えのないものとして生きることができるのかもしれないなと感じました。

まだまだ、この本の内容は続きますが、続きは、ぜひ実際に本を手に取っていただき、自分なりの道を歩んでみてもらえると幸いです。

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